文化の違いなのか?ただ単に婚家の個人の思考の違いなのか?
私は少し興奮してしまった。
言葉が拙いせいもあるし、事務的に話し合うという練習をしていないせいもある。
だがしかし、四角四面のドイツファミリーに、初めて知った文化の違いに落胆もし驚愕し、益々関わりたくないと思った。
義母が亡くなった。
目下、告別式の手配でてんやわんや。
こちらの葬儀屋(少なくとも日本で私が知っている葬儀屋)は日本と少し違う。
日本においては全て手の届くように手配してくれる。且つ、近しい人々があれこれ手を焼いてくれ、
喪主並びにその家族、私みたいに海外に住んでいるものは娘であろうと、
もう、来日してひな壇に座るだけみたいに何もしなくていいように(気が回らないだろうから)整えておいてくれた。
近親者はこんな時だからこそ、お互いに疲れを起こさないようなるべく事務的に手配を進め体を休めるようにしていたと思う。
嫁ぎ先の国のは違う。葬儀屋さんが一貫してやらないシステムだから。
小姑が仕切り、最高の見送り方のため、思い出話を挟みながら時間が流れていく。それを長いと感じるのは私の器量の狭さと関わりの浅さだけど。
第一回目の手配の話し合いは、もう、すごく疲れたし。疲れる。
ただ故人の顔を見るだけに行った日に手配事も入る。文化が違う、理解できない。「理解できない」と言うと、溜息をつかれる。
小姑も人手が足りなく(私が使えなくて)イライラしてくる。
一昨日は三世代が一緒にいた。こどもは祖母の顔を懐かしみそれでいいと思っていたのに、その後につき合わされ、自分の予定も狂いこちらも不満がたまっていた。
挙句の果て帰宅時に私と夫が口論となりシクシク。
前置きが長すぎた。何が一番言いたいのかと言えば、故人の見送り方の違い。
こちらは告別式の後、四十九日の法要のようにレストランとか公民館などで、お茶と軽食を参列してくれた人に振る舞う。
でも!振る舞うのは全員じゃない。招待した人のみだけらしい。
らしいと書いたのは、他家の事情がそれぞれ違うようだから。
新聞の告知は出すから、生前ご縁があった人達は教会のミサに来るだろう。で、その後は燦燦囂々。
軽食やお茶に与る人は招待された人のみ。(この会食は四十九日の法要的な意味合いだし、会場のキャパシティや予め準備する量も把握していないとだからそれも確かに大事かな、と、今は少しだけ理解できる。)
告別式に来てくれた人全員にお茶を出すことは無い。返礼カードだけはある。
義両親の近くにすむ私の親友(戦友とも言える大切なひと)が尋ねてきた。「生前お顔見知りになっていたし知らない間じゃないから告別式に参列してもいい?」
私も夫も「是非!参列してください」と、答えた。
が、実際、手配の段階になり、レストランに呼ぶ人の明細は?となり、私の親友は唯一そのリストから外された。
「時間を割いて来てくれる人にお茶も出さないの?」と、私は興奮した。
すかさず夫が、「君に話したじゃない?参列してくれていいけどレストランは別」
いやいや、そんなの聞いてない以前に知らなかったよ。そんな文化だとは!
葬儀は招待制なのね!
全くの見ず知らずならまだしも、面識があり、義両親や小姑、私達もお互いに今後も何かとお世話になり続ける存在の友人だけが葬儀後の会食から一人外された。
そんな失礼な事できないよね。だったら初めから呼ばないほうがいい。
認識が全く違った。
茹でだこのように赤い顔をしてるわたしに、追い打ちをかける小姑が一言。
「この会食は喪主にとって何かしてくれる人を呼ぶ。」「そう興奮するな」
それを解釈するに、義父にとって懐かしい昔話をしてくれる人、悲しみで塞いでいる義父には同じドイツ人でドイツドイツドイツ…
私の友人は、それこそ、今後、義父に緊急事態があったら近くに住んでいるし駆けつけてくれるであろう、そんな厚かましいことも聞いてくれるだろうの隣人。人のご縁が繋ぐものは公共の福祉を超えて遥かに尊い。家族関係が崩壊した人、頼るべきものを持たないものは国家福祉に依存するしかない。だから過去今だけでなく、
袖振り合うも他生の縁、情けは人の為ならず、が私が育ってきた国の文化。
その気持ちで私も親友もドイツの葬儀と言うものを捉えていた。
だから、ご縁があった方のお見送りはしたいなと。
そしてまた、親友は他のドイツ人の葬儀にも数回参列したことがあるから、つまりは、故人とその関係を考慮してくれた故人家族の配慮か?
そんなら、わたしの婚家家族はあんなによくしてもらっておきながら、ここは線引きするのねと。
もちろん、夫や小姑側の親友も参列はするかもしれないが会食には招待しない。
そんなの知らなかったよー。
私はその場を鎮めるために自分に言い聞かせるように言った。
「文化の違いね」
小姑、「そうよ。ドイツでは、、、、ドイツでは、、、」
小姑とのいざこざを「文化の違い」と言えば、何とかお互いに不満を鞘に納めることができる。
書くことで頭の中を整理させたい。
四十九日法要の意味もある葬儀後の会食。選ばれた人だけが与れる。
彼等の金婚式に撮った写真(私と孫抜きで、もとの四人家族だけの写真)を夫に渡し、我が家に「飾りなさい」と、言った義母の見送りを、
どんな気持ちで私はできるだろう?
故人のいやだった思い出は書きたくないけど、現在の小姑がそれそっくりで。
葬儀は義母のものだから、
私達、生きている側の今後のご縁でなく義母の連れ合いの方を優先するのは普通なのでしょう。
でも、「葬送曲は、お花は、弔事は、招待者は」と、小姑の劇的になっている状態に疲れる。嫁だから冷静でいられる。
とにかく憂鬱な気持ち、肩にどっしりと重くのしかかったものを整理したい気持ちで書いた。